自分史 フリーの茶人開始初期編 22歳~25歳まで

なんとかなった留年時代

四国八十八か所巡礼の卒業旅行から帰宅したら

大学の留年が決まっていた私は

今から茶人をやれ」というお告げだと確信し

内定を辞退して、活動をはじめました

父には「勝手にしろ」「保証人にはならないから」と

言われたので家を探すことにしたのですが

運よく大学中に知り合っていた人が

シェアハウスを運営していて

うちに住んでいいよ、お茶のイベントをいっしょにやってほしい

シェアハウス

千葉から都内に初めて移り住み

徒歩15分のスカイツリー

茶道を学んでいた流派の家元に

「内弟子をやりたい」と伝えたら

内弟子はとってない(要約)」とのことで

「では茶道は教えないので、お茶会をすることを仕事にしていいですか?(要約)」

と聞くと

「好きにしていいよ(要約)」との承諾を得て

独自にお茶会を開始

お茶会の様子

収入がなかったので在学中にインターンをしていたWEBマーケティングの会社

のつながりで「日本ゆかた文化協会」の会長の

お手伝いをしていたため

仕事ください、なんでもやります(要約)」とお願いしたところ

モデル、カメラマン、イベント集客の手伝いをさせてもらうことに

浴衣のモデル
カメラマンとして撮影

また、知り合いだった旅館コンサルの社長のもとで

かばん持ちやりたいです(要約)」とお願いし、

かばん持ちをはじめました

車で話し相手をしたり

打合せの時に荷物を運んだり

YouTube撮影のアシスタントを

また、有名な映画のプロデュースをしていたというかたを紹介され

「秋までに庭を作り変えたいから手伝ってくれ」と言われたので

庭の土を掘って、岩を移動して、シャガの球根や苔を植え替えて

庭づくり

茶農家さんと知り合い

「茶道ってお茶の道って書くのにお茶のことなんも言ってなくない?」

「もっとお茶のこと勉強してほしい」と言われたので

茶畑で仕事させてください」と言い、

二番茶の手伝い、茶工場作業

茶畑での作業

その後、スポンサーになっていただき

農園を紹介するお茶会を都内で開催していきました。

そして担当教授のご厚意でなんとか単位をいただき無事に秋に卒業

活動を続けた卒業後

オシャレで有名なお茶サロンに応募し、バイトをはじめました。

大学在学中にすこしバイトしていた居酒屋でもうすうす気づいていたのですが

「ワーキングメモリー」が小さいのではないか?

との疑惑。

短時間に一気に細かい指示を出されるとまったくなにも覚えられない

仕事は覚えられないのに、接客ではお客様はファンになってくれるので

先輩たちから嫌われ、半年で辞めました

知り合った着付けの先生から

教室の生徒さん向けにお茶会をやってほしい

との依頼を受け、お茶教室を開催するように

お茶教室

旅館コンサル社長からの紹介で

ホテルでの抹茶サービスをやることになり

この後コロナの時期まで継続

ホテルでの抹茶

その他、お茶会の依頼はすべて断らずに受けてやっていました

音楽とのコラボイベント
外国人観光客に向けた文化イベント

とにかく「茶人」という仕事はロールモデルがなかったので

思いつくこと、頼まれることを何でもやっていく中で

自分だけの茶人のすがたを模索していました。

「若い」+「変」+「愛想がいい」+「フットワークが軽い」

と武器だと自覚しながら、

とにかく若いうちに経験を積むことを重視していました

一方で発達障害の不安があったので

非公式のテストを友人に頼んだところかなりのグレー

格特性について調べ直し、

発達障害とはなにかを調べたところ

「会社に入っていないから障害と認定されない」

という状況を自覚。

今思うとかなりの短い頻度で

ハイテンションとローテンションをくりかえしていたため

軽度の躁鬱だったのではないかと。

とはいえ、18歳までは心理学的には

アパシーだったようなので

無気力→ハイテンション→ローテンション→無気力

という心理的状態を高速回転していたようです

お茶関係で知り合った人と、お茶以外で会うと別人のようだったらしく

「二重人格なの?」

「躁鬱なの?」

と周りの人に聞かれていたらしい

また、実家を出るまでは一切家事をやったことがなかったので

料理や風呂掃除、トイレ掃除などからはじめて

「まったくできない部分」と「かなりできる部分」が極端で

破滅的なバランス感覚の上にギリギリ成り立った生活をしていました

自分としては「まったくできない部分」と「かなりできる部分」を

可能な限り自覚することが課題でした

「できない部分」を埋めるトレーニングをするか、

補ってくれる人とチームを組むか

しか自分の人生はない、と思い

「神﨑さんのお店をやりましょう」と応援してくれる仲間とも出会い、

物件探し、リノベーションプラン、仕入れ先の確保まで

すすめていたのですが

最終的には決裂。

茶人としてのキャリアを考えると

次のステップとしては

・自分の店を持つ

・茶畑に関わる

の2つしかない、と確信していたので

自分の店は

・資金がない

・運営能力がない

ということがわかり断念。

茶畑に関わりたいと思い、

お茶雑誌の編集者に静岡の茶畑を案内してもらい

就農を本気で検討しました。

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